あめのふるひ

 はやく はやく はやく はやく はやく はやく はやく
 おぼれてしまうまえに はやく つかまえて
 つかまえて もう にげられないほどに
 にげられなくさせて


 はやく (しんでしまう)


 日々鬱積し続けている感情は排出する術を知らなければいつしか自身の中で暴発するか砕け散ってしまう。双方を選ばなければ腐ってゆくだけだ。泥の様に、溶けて腐ってゆくだけだ。


「雨デスヨー、あめあめ」
「先刻まで晴れていたんですけどね」
「お断り、地震雷火事軍人。」


 その日、空は金色に光っていて雲はその中で浮かんでいた。
 金色の空を覆い隠すように灰色の雲がやってきて、窓から見える金色の空を穢しはじめた。

 電線は走査線の様に空を横断し、雨は直ぐにやんで、又在り来たりな晴れの天候が広がった。雲は少し灰色がかっていて、集団で移動する。金色の空は雲に覆い被さられて消えてしまった。ほんとうならば其処にある筈の空は消されてしまった。きれいだったのに。その言葉はいつも何処かで見つけられる。

 きれいだったのに。


「市川ぴょんはサァ」
「はい、なんですか?」
「ンー、『あの頃』ってアリュ?」
「あのころ?」


 雨は寒さを齎して、金色の空を浚ってしまった。雲のちぎれた隙間から見える空はもう金色ではなくなっていた。なら何なのだろう。その答えは分からない。金色ではなくなった空は何に成るのか。この雲は何処にゆくのか。私達は何処へゆくのか。永遠の謎だ。


「あのころはよかったね。ってヤツ」


 去りゆく季節は何処にあるのか。去りゆく君と僕は何処に居たのか。そもそもそれは在ったのか、否か。その中心に居てぐるぐる回されている立場の自分にはまったく分からない。マドラーで掻き混ぜられて、箆でひっくり回されて、いとおしむことすら億劫に成る。

 窓から見える景色はほんものかも知れないし偽者なのかも知れないけれど、それを確かめる術なんてひとつたりとも持ち合わせて等いないのだから、仕様が無いしょうがないとつぶやきながら現状を受け入れるしか方法が無いのだ。しょうがない。仕方ない。それは有り触れた言葉だけれども結局単純な言葉に終結する。それ以外に弁明の方法を知らないから。誰もがセンパイみたいに頭が切れるのではないのだ。


「はやく、」


 オレンジの髪の毛。センパイの右手首にある銀色のブレスレット。
 時々はっとする。踏み込んでは成らない域に達している事や、ふつうならば尋ねられない質問をしてしまっている事。はっとする。それなのにセンパイは一言も咎める事すらせずに私を見守る。私の答えを待っている。それだけで私のこころは挫けそうになるのだ。何度も、何度も、繰り返し。

 繰り返し、くりかえし、私は私に言い聞かせる。

 踏み出すならいまだよ。逃げるならいまだよ。


 (いましかないよ!)


 目を伏せて、走るペンを止めて、呼吸をして。
 目の前に居るオレンジ頭のセンパイを眺めながら、ゆった。


「春になればいいですね」


 センパイは頷き、笑った。
 なんて、うつくしく笑うのだろう、このひとは。

 私は一瞬ノートに走らせるペンも、雨が降っている事も何もかも忘れてセンパイの微笑に魅入っていた。吸い付かれる様に私の目は持っていかれた。その度に私は涙が零れそうになるのを必死になって抑え込むのだ。泣いちゃだめだよ。おまえは泣くべきではないのだよ。そう言うのは、きっと本能。ふみこんじゃだめだよ。だきしめちゃだめだよ。ふれちゃいけないよ。これも、本能。


 私は言う。ありあわせの言葉で、ありふれた台詞を、つなぎあわせて。


「春になればきっと、みんなしあわせになれるかも知れませんね」


 素直にこころの底からそう想えるのだから。

 そうすればきっと。春になればきっと。確信なんてひとつもないのだけれど、はっきり言える事と言えばこれだけで。きっと春に成ればあたたかくなってこころもあたたかくなるんじゃないんだろうかと曖昧な期待で私は春を待っていた。好きでもない春を待っていた。

 センパイに今、目の前から消えてしまわれたら、あの金色の空の様に私のこころには穴が開く。誰にも埋める事が許されず、隠す事すら叶わない溝が生まれる。そうしたら私はどうすればいい? 私はその為にセンパイを利用しようとした。その事実が私を縛る。私はセンパイを利用している。そしてセンパイも私を利用している。かなしいとは想わない。だって私達にはあの金色の空が必要だから。


「春かー、あたしは卒業しちゃうナァ」
「じゃあ留年すればいいですよ」
「ホンキ?」
「軍なんて、蹴飛ばしちゃえばいいんですよ」
「ワーオ!」


 灰色の雲の上にある筈の金色の空の上に存在する神様は偉い人なのだとしたら、どうしてこんな簡単な事に答えてくれないのだろう。神様が降臨してきて私に何かを吹き込んでほしい訳じゃないのだ。唯、簡単な事。センパイに触れる事が、そしてセンパイを抱き締める事がこんなにも叶わない事だなんて、誰が信じれるのだろうか。誰も、信じてくれないだろう。理解もしてくれないだろう。

 恋でも愛でもない。この感情には名前が無い。 (そう それは たとえば、)


 春になれば、しあわせになれるね。
 そんな事を考えていたんだ。
 春になればこころもからだもあたたかくなって、きっと何もかもがどうでもよくなって、誰かを怒ったり戒めたり責めたりすることもきっと無くなるんじゃないか。なんて、期待も希望も好い事を考えていた。理想論と呼ぶには余りにも陳腐だけれど、私達に望めるものはそれしかなかったのだ。

 春になれば、きっと。

 きっと、いつか。

 だから、はやく、はやく はやく はやく はやく。


「また雨降るかネ?」
「降りそうですね」


 教室の窓から空を見上げながら思う。雨が上がったらぬかるんだ土を踏もう。雨が上がったら水滴の付いた葉に触れよう。雨が上がったら急に訪れる寒さに耐えられる様にしよう。

 雨が上がったら、雨が降ったら、春が来たら、春が来なかったら。 (しあわせになれたのにね)