きみがいないと寂しくて死んでしまいそう (きみといても寂しくて死んでしまいそう)
繊細な音色がする。いまにも消えてしまいそうな儚い、おと。
人を眠りに落とすにはもってこいの音色が奏でられている。鍵盤を美しく滑る指。シルクをなぞる指先。高音、低音、響かせるおと。ピアノの音だ。これは、ピアノだ。ドビュッシー、クロード・ドビュッシーのClair de lune。Andanteのテンポでcon sordina。弱音を強調して。
きれいなねいろ。なだらかな草原に居るみたい。心地好い。
変わった。ターンッ、と高音が弾かれた。弾く様に展開されてゆく。今度の曲は、いや、又ドビュッシーだ。有名なArabesque。でもちがう。こんなスピードで弾く曲じゃない。速過ぎる。右手と左手が遊んでいる。それにペダルが加わって、まるでscherzando。速い。未だ未だ速くなる。爆発してしまいそうな位速くなる。
(もっと、もっと、もっともっともっと!)、センパイのそんな声が私の中に響く。
タタタン、タタタン、タタタンタタタンタタタン、タン、タン、タン
編曲か。いやそうじゃない。曲が変わる時の合図みたいなものだ。
けれど所々曲が変わっている。聞いた事のあるほんものの曲とは様々な部分で書き換えられている気がする。作曲している。弾きながら作曲しているのだ。こんなにめちゃくちゃな音なのにその場から離れられない。楽しげに、切なげに、堂々と、ひっそりと、語るように、ささやくように、歌うように、いきいきと。
ベートーヴェン、ピアノソナタ、第十四番、月光。ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ。有名な曲だ。一八〇一年、ベートーヴェンが三十一歳の時、ベートーヴェンの弟子で、恋人でもあったイタリアの伯爵令嬢、十七歳のジュリエッタ・グイチャルディに捧げるために作曲された曲。楽章毎に早くなる序破急的な展開や第一楽章に緩徐楽章を配置すると言う変わった構成が魅力的とされている。
第一楽章。なんだろう、この曲。全然ちがう。Adagioなのに重たい雰囲気が全く無い。そうか、Scherzoなんだ。だから速いのだ。凶暴で荒れていて深刻でそれでいて軽快で後を引き、ほら、
(ターンッ)、跳ねる。惹き付けられるような速さ。頭が追い着かなくなる。タタタターン、と高音が鳴り響く。
めちゃくちゃだ。何もかもがめちゃくちゃだ。曲の最中に作曲するなんて阿呆だ。
だからこのピアノを弾いているのはセンパイに違いない。
今度は片方の手だけで弾いている。耳を欹てればやっと分かる程繊細な(それでいてひどく惹き付けられる)音色だから片手だなんて初めは気付かない。そういえば最近習った音楽史の中にウィトゲンシュタインと言うピアニストが居たな。センパイが言っていた。「左手だけで弾くんダ、面白ソウ」。確か左手だけで弾く曲はラヴェルが作曲していた筈だ。それなのだろうか。今に成って、悔しい。と思った。あの時センパイが言った言葉をもう少し真剣に受け止めて聞き止めておけばよかった。
テンポはScherzoをキープした儘、センパイは更に加速度を増しながら音楽を展開してゆく。きっと譜面なんて見てやいないのだ。こんなにも素早く曲調を変化させたり編曲したりしているのだから、譜面なんて意味が無いのだから。
(ターンッ)、また跳んだ。
めちゃくちゃだ。笑いが漏れた。
ラフマニノフ、セルゲイ・ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第三番。
ピアノ協奏曲の中では最難曲として知られる曲。一九〇九年、イワノフカの別荘で書かれたピアノ協奏曲第三番ニ短調。全三楽章から構成されている最難曲だ。学校内に居るどんなピアノの上手な人間を集めたって此処迄弾ける人は居ないだろう。恐らく音楽の先生も無理で、センパイにしか弾けない曲だろう。私がこの曲を知ったのはセンパイの生み出した切欠だから、矢張りセンパイが弾いているのだ。静かな確証は静かな音色に乗せられた。激情を生み出すその指、繊細で憂鬱を結ぶ頭。うまい、でもめちゃくちゃだ。
音を生み出すその指が遊び始めたらもう駄目だ。
ヒステリックでロマンチック。アンビバレンスに見えて調和している。何だろう、これ。
跳ねた。
(ターンッ) 飛んだ。
(タターンッ) 刻む。
(タタタッタッタン)
センパイの作り出す音楽の世界。理解出来るもののみが入る事を許されるのならば其処はきっと楽園なのだ。センパイは楽園の中でピアノを弾いている。戦争を起こして、平和を齎して、駆け足で去ってって、地雷を踏んで。音楽は流動する果てと成りてセンパイを運ぶ。センパイは床を思い切り足でドドンッと踏み込みながら鍵盤を激しく叩いた。単調なリズムはいつしか均等を失いセンパイは鍵盤のダンスをし始める。ステップを踏むように、なめらかに、静かに、ここちよく、自由に、上品で神秘的に、たわむれて。
ひきょうだ。けれどそれを口にした所で何かが変化する訳でも無く、その兆しも見えない。
唯茫洋と広がる前途に唾棄する様な興じた真似をするだけだ。
センパイは楽園でピアノを弾いている。
才有るもののみが楽園へゆける。私はゆけない。才能が無いからだ。センパイの様に阿呆でも天才でも無くて、センパイみたいにピアノも巧く弾けなくて、センパイの様に果てしない時を見据える事も出来なくて。センパイは楽園に居る。その癖片足は地獄に突っ込んでいて笑っている。音と戯れ始めたセンパイを止める権限等誰一人有していない。優雅に、遊んで、気ままに、楽しんで、激しく。
(ターンッ)、跳ねた。
私は立ち尽くして泣いていた。