暇潰しでも良いから、僕をたすけて、かみさま

 オレンジ色の猫は丸まって眠っていた。おだやかな陽気が注ぐ教室の隅。誰も居ない教室。オレンジ色の夕焼け。光を浴びるようなおだやかな眠りの筈なのに、私はそのひとの首にそっと手を掛けた。

 両手でそのひとの首を掴み、喉のくぼみに指を押し入れた。
 血液が沸騰するような感覚に陥った。

 そのひとから両手を解放して直ぐ様両腕を抱き締めた。身体全体が震えていた。何に脅えているのか分からなかった。脅えているのか違うのか、成し遂げられなかった事に憤激が追い着かないのか否か。正しい事なんてなにひとつ存在しないのに気付いたのは随分と後の話だった。なにひとつ、なかった。


「絞めてヨ。」


 オレンジ色と赤らしき色をぐちゃぐちゃに混ぜた夕焼けの片隅で、そのひとはそうつぶやいた。
 それは自嘲的にも聞こえたのだけれど、私には何故か唯一の救いの声のように聞こえたのだ。ひとが死地に陥った時に聞こえる、そう、救いの声。おかしいと言われるだろうか。それでも私達には正しい事はなにひとつ無かったのだから、それはきっと真実に最も近しい。

 このひとは破滅を願っていた。いつだって破滅的だった。
 すべて、すべてぶち壊れてしまえばいいと、本気で思っているようなひとだった。一過性の感情ではなく、常時抱いていた。いつの時も、授業中も放課後も、私の前でも誰の前でも、全部全部全部、ぶち壊れてしまえばいいと思っているひとだった。たぶん、いまだってそう。壊れてしまえばいいと願っている。

 いつしか破壊願望が己に向き、衝動はこのひとを動かす。
 良い意味でも悪い意味でも、このひとはぶち壊れてしまえばいいと願っている。いつも。


「絞められる訳、無いじゃないですか」


 眠った振りをして、
 首を絞められる振りをして、
 死んだ振りをして、 (否、ほんとうに死ぬ気だったのだ)
 その場に崩れた私の姿を目に焼き付ける様に見据えて、このひとはわらった。


「嘘コケー。最初は本気だった癖にサー」


 笑ってみせて、
 少し照れてみせて、
 何だヨー、なんて乾いた声でゆって、


 お願い、神様。

 暇潰しでもいいから、


「中途半端にソーだから、くるしいのだヨ」


 (このひとをしあわせにして!)


「期待してないからイイヨ」


 だって君は誰にも期待しないのでしょう? 君は誰かに願う事も曖昧になってるのでしょう? それならばいま此処で君が自害するのを僕が見ていてあげればいいのかな。そうすれば君はしあわせになれるのかな。中途半端に自滅的な僕は、君に何もしてあげる事が出来ないのに君は僕を傍に置くのでしょう?

 僕らには破滅の道しか用意されていないのだ。ふたり一緒に破滅するか、片方が自滅するか、どちらかしか選択肢は残されていないんだ。なんてゆうお話だろう。こんなにかなしい話は聞いた事がない。君は飛ぼうとしている。ぼろぼろの翼で、たくさんのひとに引き裂かれた翼で、もう羽根だって少ししか残っていないのに、その翼で飛ぼうとする。落ちるのは目に見えて分かっているのに反して君は落ちてこない。何処かへ飛んで行ってしまう。遠くへ、遠くへ。ただひたすら、遠くへ。

 行かないで、何処にも行かないで。
 ずっと、そばにいて。

 何も要らないから、そばにいて。


「センパイ、」
「知ってル」


 頷いて、笑って、いつも通りに笑って、何も無かったかのように振舞って、
 それが君の強さだと知るのは時間の問題で。

 そばにいて。

 僕らは一緒に居ればいずれ破綻する。それは分かり切った話だ。それを承知で僕らは一緒に居る。こうやって馬鹿をやったり笑い合ったりしながら同じ時間を共有している振りをしている。ほんとうは別の次元で生きている様な世界の人間達が同じ場所で、喋り合っている。馬鹿みたいに。

 かみさま、ひまつぶしでもいいから、


「この方がずっとあたしらしいジャマイカ」
「センパイらしい……?」
「ソウ。何かを待ってるよりサ、こっちからHEY! って飛び込む方があたしラシイと思うのダ。臆病者の真似をしてっと、いつか臆病者にナッチマウ。だから、」
「センパイは、」


 息を呑んで、唾を飲んで、さあ、ゆおう。


「私に言う振りをして、時々自分にゆってるんですね」


 破滅の道しか用意されてないのならば、人間らしく暮らしてみよう。最後の最後まで足掻いて、それでも駄目なら潔く諦めも付く。だけれど未だ足掻いてもいないのだから、努力すらしていないのだから、諦めるのには早過ぎて、手放すのには早過ぎて、未だそんな事やりたくないし、忘れればいいとも思わない。


「ワカッチャッタ?」
「どうしてそんなアドバイスや忠告をするんですか?」


 そばにいて。

 嗚呼、指の先の爪の先に、このひとの血液の感触が未だ残っている。
 震えた指先はあまくとけてゆくのだ。

 つまらないでしょう?
 こんなとこで終わったらつまらないでしょう?
 それを君は僕に伝えようとしていたんだね。漸く僕が気付けた時はもう遅過ぎたのかも知れないね。こんなとこで終わってしまったらつまらないね。うん、つまらない。オレンジ色の空が翳る。僕らから世界を遠ざける。僕らは世界から隔離される。そんな場所で僕らは笑い合う。おしまいはつまらない。


「楽しモウ!」


 窓越しに見えた景色よりも君の目から見えた景色の方が、真実の様な気がしていたよ。
 神様、暇があったらこの世界をぶち壊してください。

 センパイは手を突き出した。私は釣られる様に手を出して、センパイがペチンと手を合わせて笑うから、余りにも美しく笑うから、私は口角を少しだけゆるめた。それだけでセンパイはもっと強く笑った。私は此処に居ます。センパイも此処に居ます。それを確かめ合うかの様に、手をペチンペチンと叩き合った。