生きることに躓いたら、迷わず僕の手をとって
一過性のものだけれど嗅覚の記憶は鮮明だ。
(センパイの、)
どきり、とした。別に変な意味なんかじゃ無くて、こんなにもはっきり鮮明に覚えてる自分にぎくり、とするのだ。残り香は過ぎ去ってしまえばもう覚えてやいないのに、ふとした時に思い出すセンパイの、におい。想像と創造を行う指先と艶かしいくちびる。記憶の奥底でチカチカと光る、つい昨日の事の様な事態。永遠のような、事象。様々な事が絡まり合って私は問われる。歪んだ国のお話みたいね?
「サミーサミー」
「センパイ、セーター忘れてますよ」
「ア、こんなとこにあったんダ。探してたニョ」
ぼんやりとセーターを着るセンパイを見遣りながらボーッとしていたら、センパイは晴れやかな笑顔を私に向けた。策略なんて含まれていない、素朴な疑問を問う時の顔。
「ドッシター」
「何でもないですよ。随分寒くなりましたね」
歪んだ国のお話みたいね? ダリの絵みたいに時計さえ歪んでいるの。それは時間軸がね、おかしいのよ。長針と短針がキスをする時間に遣って来る男。午前0:00の彼。こんなメルヒェンな話は前にセンパイから聞いた。ありっこないとゆっていた。ありっこないとゆうのは曲解すればあって欲しいとゆう願望なのかも知れない。センパイのささやかなサインは見落としがちだ。センパイも期待してないし。
センパイは色々なサインをちらつかせる。
猛獣の前に生肉を釣らすのと同じ様な心境なのだろうか。例えばセンパイにとって軍の存在がその様な部分を占めているとすれば、センパイの存在は軍にとっての生肉。
それでもサインを読み取れるひとなんて居ないのだから、せめて私が知り得たものを少しでもセンパイと分かち合いたいと思った。センパイは知識もあるし知恵もある。用いる術も知ってるし、どうやれば分かり易いサインを出せるのかも当然知っている。それでいて、分かり難いサインをちらつかせる。
「アレやろうヨ、マラリアマラリア」
「マイムマイムですか、頭しか合ってませんけど。どうしてフォークダンス?」
「それからオクラホマミキサーにブチコロス」
「ミクサーです、ミクサー。それからコロブチカ」
「ンゴマ、ポレポレポレポーレ!」
「はい?」
センパイは器用にくちびるの先端を尖らせて、机を叩いた。
その儘、足でステップを踏みながらくるくると回ってみせたのだ。
「踊、りですか?」
「ウシポテエ・サーナ!」
「何処の言葉ですか」
トントン、トトトンッ、トトントンッ、ドタンッ。
センパイの踊りはバレリーナの様でありフラメンコの様でもあり、楽しんだろうなあ。とゆう事しか伝わらなかったのは事実だけれど、センパイはきっとその事を伝えたかったのだろう。と今なら何となく分かる。どうしてその時に気付けなかったのか。どうしてギリギリの境界線で嗤うセンパイをその儘にしておいたのか。
ほんとうは泣きたかったんですよね。ほんとうは苛立ちが頂点を超えていたんですよね。それでもセンパイは私の目の前では一度たりともそんな姿勢を見せませんでしたね。強いセンパイ。それは、やっぱり演技だったんですよね。かなしいけど、それがセンパイを造っているならば私は甘んじてそれを受け入れようと想いました。だって私がセンパイを見なくなってしまったら、センパイはもう、ほんとうに、
センパイが舞う。
おだやかな夕焼けを浴びながら、舞う。
型破りの舞踊。精錬された指先。伏し目がちの瞳。私とセンパイだけの教室。
トトン、トトン。とセンパイが床や机を叩く音と呼吸の音だけが、響く。
呼吸の音がやけに響く。
「Haraka haraka haina baraka.」
教卓の前でセンパイが踊る。オレンジ色の髪の毛がセンパイが回転する度に溶けてゆくようだ。センパイは元気良く笑いながらこっちに手を差し伸べてきた。私は勿論断った。遠慮じゃなく、ほんとうに私は踊れないから。でもセンパイは諦めずに手を伸ばし続けた。私に向かって、私だけに向かって。
なにをしようとしているのか。なにがしたいのか。分からなかった。
それでも手を繋げば少しだけ何かが変わる事を知っていた。
こころの奥底では、分かっていた。センパイの手を取ったらお終いだ。でも私は掴まずには居られない。このさびしいひとの手を、小さな冷たい手を、武器を握り慣れた手を、掴まずには居られない。
「一緒に。」
「ふたりで?」
「ソウ、ふたり」
「私、踊れませんよ」
「踊るのが目的じゃネーのでイーんです」
センパイはしきりに手を差し出す。
私はセンパイの掌を間近で初めて見た。皮が何度も剥けて、ぼろぼろだ。胼胝も潰れてめちゃくちゃだ。これがセンパイの手。そうか、これが、センパイの手なんだ。私は手を重ねるのを脳味噌の中で幾度と無く拒んだ。私の手はふつう。ふつうの手。勉強しか知らない、これからでさえ知る事も無い手。なのにこのひとはこんなにも、傷付いて、それでも尚且つ這い上がる。
私達はセンパイを「天才」とゆう枠に嵌めるので精一杯で、それからの事なんて考えてなかった。センパイは天才で阿呆で、ほんとうはもっと気の利いた台詞を吐くべきだったのだ。だって私達はセンパイが怖いから。センパイは様々な事を成し遂げるから。私達とは違うから。そうゆって私達はセンパイを隔離する。
なのにセンパイは手を伸ばす。
センパイを置いてけぼりにする私に向かって手を伸ばす。私の言葉を待っている。
軍がセンパイを欲しがってるのは恐ろしいからだ。センパイは破滅を願ってる。それも簡単に実行出来るから尚の事。きっとそれが畏怖の原因。センパイは破裂しそうな精神を抱え込んで爆発しそうな身体で行動している。わらってわらってわらって。もう、わらわなくていいですよ。私に言う権利等無い。
「世界中何処探しテモ、」
傲慢過ぎて、エゴが過ぎて、私は口を噤む。
「ワチキの代わりは居ないし、」
跳躍した。
そう思ったら、センパイは窓際の手摺りに腰掛けて笑っていた。
「市川ぴょんの代わりも居ないのダ」
ダカラ踊ろう! センパイはそう笑いながら言う。
私は一瞬、すべてがどうでもよくなった。センパイが笑う。私も釣られて笑う。その工程の何処に不備があるのだろうか。否、何も無い。何もセンパイと私を止めるもの等無いのだ。このふたりきりの世界を壊せるものはセンパイと私以外に誰も居ない。すべてが、すべてがどうでもよくなって、私の指はほぐされ、
刹那、センパイに捕らわれていた。
ゆびがからまって、反射的に身体を反らしたのに、センパイは意地でも私の指を掴んで。
「実験済ミ。」
「……ドッペルゲンガー探しでもしたんですか」
「邪悪な存在でも市川ぴょんと瓜二つならオールオッケー」
「私の寿命が縮みますよ」
はなして。
(はなさないで)
はなれて。
(そばにいて)
「踊れませんってば」
「じゃあ繋いでるダケ」
「意味無くないですか?」
「アルヨー」
「センパイ、」
がっちりと私の手を握ったセンパイはこころなしか顔を私から背け、何を言っても通じない様な素振りで繋がれた手をぶんぶんと振るっている。夕焼けがセンパイと私を呑み込んでしまう。
「震えてますよ」
夕焼けに呑み込まれてしまう。
教室の椅子も机も教卓も花瓶も、窓も床も天井も。
夕焼けは色々なものをぐんぐん呑み込んで、肥大化して、くるしいと叫ぶ。そりゃそうだ。おまえが呑み込んだものは、一日一日死んでゆく教室なのだ。くるしくて当たり前だ。其処で存在している私達でさえくるしいのに、呑み込んだおまえがくるしくない訳がない。
「サミーんすヨ」
「強がりばっかり」
「強がりじゃナカァー」
私はセンパイの傍に居る。センパイのにおいがする。繊細なにおい。儚いにおい。
私は頭の中で繰り返し繰り返しセンパイの姿を反芻する。姿形、におい、仕草、表情、言葉。焼き付ける様に何度も。忘れないように。覚えていられるように。嗅覚からの刺激はハッキリしてるから。
センパイは居た堪れなくなって手をぶんぶん振るう。
微かに震えているセンパイの身体を、抱き締められたらどんなに楽だろう。
「センパイ、香料あるもの何か付けてますか?」
「ウンニャ、香水とか好きじゃネーし、頭もソンナ。シャンプーくらい」
「そうですか」
「市川ぴょんは?」
「私もそんなに興味無いんでやってないですよ。きついにおいって駄目なんです」
嗅覚の記憶は鮮明なのに、センパイも私も微かなにおいを選んだ。
だから鼻を擦り合わせないと理解出来ない様なセンパイと私のにおいは、何故か特別なものだった。
センパイと私は窓際で手を繋ぎながら、夕焼けに呑み込まれてゆく教室を見つめていた。何か気の利いた事でもゆえばよかった。明日は晴れますかね。今日の夜はもっと寒いらしいですよ。センパイ、風邪引かないようにしてくださいね。こじらせたら大変ですよ。明日、また、
(逢えますように)
「太陽が、死ヌ。」
太陽は毎日死ぬ。そうして毎日生まれる。その悦びはいつしか消えた。
でもセンパイはいつもそんな事を考えていたのだ。と改めて痛感した。過ぎ去る一時さえセンパイには大事で仕方なかった事なんだ。大切で、いとおしくて、唾棄したい程で、引き裂きたい位時には激しいもので。その瞬間をこころに刻む。太陽が死ぬ瞬間、センパイの指が震えた。
どうしよう。太陽が死んでしまう。センパイが悲しんでしまう。私はセンパイの手を自らの意思で強く強く握り直した。まだ、へいきだから。まだ、だいじょうぶ。ひどい言葉を、私はこころの中でつぶやいた。