神様にくちづけを、太陽にくちづけを

 時偶、自分の道徳概念について考えさせられる時がある。
 道徳。ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものを言い、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。老子の学。「大辞林第二版」より抜粋。

 道徳教育と言うのは更に、社会に於いて望ましいと考えられている価値観や価値体系に基づく意識や行動様式・生活態度の形成を目指す教育の事だ。

 善を成そうとする行為が道徳心と呼ばれるものだったら、私達が学んでる道徳の授業は一体何なのだろう。善とは何だ。悪とは何だ。何処からその線は別けられる? 境界線は何処から引かれる? 羊と山羊は何処で別けられるのだろう。センパイに訊こうか。と不意に思った。センパイは図書室のカウンターで絵本を読んでいる。私は辞書を閉めて元の位置に戻してからセンパイの傍に寄った。


「――紀元前四千から三百年位までの理容には、『善と悪の精は頭髪を伝わって出入りする』っつー迷信があったカラ、理容は宗教的儀式の元に行われて僧侶なんかがヤッテタって記録があったヨ。悪の精を追い出す意味のヘアカットだったラシク」
「私の考えを読むのはやめてくれませんか」


 肩を竦めてそう問えば、無論。と声が返ってきた。
 センパイは絵本をぱたり、と閉じて目頭を押さえた。何を考えているのだろう。私なんかじゃ想像出来ない程ふくざつな事を考えているのだろう。練りに練った言葉を吐くセンパイは、軽率でも軽薄でもないからケラケラ笑っていないとそれはほんとうに重たいものなのだ。と気付いた。

 普通ならば司書か図書委員が座っている筈の図書カウンターに座り込んでいるセンパイは、ニヒルな笑みを浮かべながら言葉の先を繋いでいく。善と悪、ぜんとあく。センパイには似合わない言葉だ。このひとは己の信念だけで動いている様なひとなのだから。誠実さの欠片も無く。


「パブロフの犬の原理を知ってッケ」
「えーっと、確か……、鈴を使うんですよね。犬の餌をあげる時に」
「イワン・ペトローヴィチ・パブロフ。生理学者で唯物論者。訓練や経験に因って後天的に得た反射、条件反射のコト。通常、反射と呼ばれるのは無条件反射なのでこれは先天的なモノ。後天的なのが条件反射。パブロフの犬の実験は唾液の分泌量で実験したラシイ」


 センパイがおかしくておかしくて堪らない。と言った様子で上半身を折った。喉の奥から搾り出される奇怪な声に、異常さを感じ得ずにはいられない。センパイが喋るのは紛い無き事実。そして歴史。冒涜している訳でも無いし批判している訳でも無いのに、どうしてもセンパイの声色から感じる、不信感。

 先程迄センパイが読んでいた絵本のページの最後にこう書かれていた。
 「Kindness effects more than severity.」。やさしさは苛酷さよりも効果がある。やさしさは時にひとを追い詰める。私はその苦しさを知っている。センパイもきっと知っている。

 やさしいひとは怖い。やさしいものは恐ろしい。どうして。
 おだやかなしあわせを望んでいるのにそのおだやかさに時々はっとする。やわらかな声色はくるしい。やわらかな仕草は厳しい。泣きたくなる。それ位分かってるから、尚更だ。くちびるに言葉を宿したセンパイは喋る。持ち得る知識をほぐすように、絡まった糸をほぐすように。


「犬にメトロノーム又はベルを聞かせた後に餌をヤル。餌の時には当然唾液が出る。その条件付けのプロセスを繰り返してく内に、メトロノームの音を聞いただけで唾液を出す様にナル」
「それが善と悪と何の関係が?」
「幼い頃から悪には罰をと教えられル。悪事を行えば処罰される。その条件付けのプロセスを繰り返してく内に、悪と聞いただけで罰をと望む様にナル。悪は憎まなければなりません、ってサ」


 センパイはにっこり、と笑ってゆった。


「憎しみの連鎖ダ」


 Kindness effects more than severity.
 もっと怒ってゆってくれればいいのに、怒鳴ってくれればいいのに、どうして、何故そんなに笑って居られるのか。其処に私は溝を感じる。いつも感じる。住む世界がまるっきり違うのにセンパイと私は話し合う。他愛無い事で笑い合う。轍の様な溝に躓く。生きる事に躓く様に。

 センパイには常識の欠片も無い。センパイには法が似合わない。
 いつかセンパイの目の奥に潜り込んで、其処から世界を見てみたい。
 それはどんな景色なのだろう。センパイの見る景色はどんなにみすぼらしいものなのだろう。まやかしの希望さえ払拭するセンパイの眼は、どんな色をしているのだろう。私はそれを良く知らない。今迄知ろうとしなかったからだ。素晴らしくみすぼらしいこの世界に、センパイと私が居る奇跡。

 きっと天文学的な数字に成るんでしょうね。センパイと私が、話し合う。それだけの事が。


「だが、造ってみようかと思ウ」
「何をですか?」
「完全な善。」


 そんなの神様が完全な善じゃないですか。と私が答えれば、
 縋っているのと同じだヨ。と即答された。


「じゃあ、センパイは神様に縋らないんですか?」
「縋るのも頼るのもダラシネーし、ちがうんダ。ほんとうにやりたいのはソンナ事じゃない。神様は万能で全知ダケド、そうゆうのはちがう。だから困るんダ。時々、」
「やっぱり有神論者なんですね」
「その方が楽かも知れん」


 楽かも知れない。是認するのは楽だ。否定するのは大変だ。
 時折否定する方が楽な事はたくさんあるけれど、神を信じるのは楽なんだ。人間、動物、教室の窓から見える景色。すべてを万能な神が創ったとゆえば説明が付く。それでも、この感情に名前は無い。

 だきしめてあげなくちゃ。
 きみはここにいるよ。ぼくもここにいるよ。
 君とだったら太陽にだって飛び込めるんだよ。

 この感情に名前は無い。一番近しい感情は衝動だからだ。突き動かされる様に私は動く。私の中で何かが響く。それはサイレンか、又はメトロノームか。果たして心臓の音色か。私も誰かに操られてるのかも知れない。と不意に思った。でも何の確証も無しに更にこう思う。誰かに操られてるのであれば、その糸を断ち切ってくれるのはセンパイだ。センパイは、私を掬い上げる。そして自分は更に深く沈む。


「グリム童話はもうおしまいですか?」
「イソップ物語も棄て難イ」
「じゃあ次はアンデルセンですかね」
「『ただし、通路に鳥の死がいが転がっている。見ても、怖がらないでくれたまえ。』」
「無駄に長いんですよね」
「『キーヴィ、キーヴィ!』」


 センパイは絵本探しへ旅立つ。その後ろを私が追うと、背の小さなオレンジ頭をしたセンパイは恥ずかしそうに笑ってみせた。それでもその表情の中に少しだけ喜びが混じっていたのを見分けられるのはきっと私だけなのだろう。喜んで、少し悲しんで、半端は許せないから、鼻歌を奏でながら棚の中に消える。

 刹那、私はもう二度とセンパイの姿が見えなくなるんじゃないかとゆう恐怖に見舞われた。はっとして追い駆けようとしたけれど、その考えは簡単に払拭された。センパイが声を出してくれたから。


「キーヴィ! キーヴィ!」


 センパイが神様だったらよかったのに。と不覚にも想像してしまった。
 それは直ぐに正された。センパイの創る世界はむちゃくちゃだからだ。
 神様が居て、神様が人間を創造し、奇跡的な確立でセンパイと私は出会った。どうかその意味をいつか教えてください。台風の様な破天荒なセンパイは、それを奇跡だと感じてる?

 私は信じている。私は感じている。絶対的な善も絶対的な悪も存在しないこの世界で、道徳概念が何だと問えば、それはこうだ。とヒントをちらつかせるセンパイが存在している世界に感謝している。及び素直に陳謝している。平伏してしまいそう。降伏してしまいそう。だって、 (きみもぼくも、めちゃくちゃ)


「キーヴィ!」
「何ですか、キーヴィって」
「ツバメ!」
「アンデルセン?」
「ンッ!」


 道徳は人間相互の関係を規定するもの。神様との関係ではなく、人間同士の。
 個々人の内面的原理として働くものを言うから、センパイはきっと間違っていない。センパイの辞書に間違いは存在しない。笑ってしまう事だけれど、真実。精密で綿密に計算尽くされた行動には余念が無い様に見えて、ちょっとした時に触れたセンパイの脆い部分を考えると笑みが漏れる。

 善とは何だ。悪とは何だ。社会に於いての善悪とは、なんて曖昧なのだろう!
 善人には褒美を。悪人には罰を。頭の奥底にすり込まれている裁きの感情は、パブロフの犬の様な罰と憎しみの連鎖なのだろうか。センパイが言うように、誰かに勝手に、悪イコール罰、と認識されられているのであれば、それは悲劇だ。罪人に罰を与えるのは正しい事なのかも知れない。けれどそれは必ずしも己の意思で考え着いた結論なのだろうか。もしパブロフの犬の様な、すり込みが存在していたら。

 完璧だから。センパイは完璧だから。はちきれそうな感情を目の前にして私はそう言う。センパイは何もかも完璧過ぎて怖気が立つ。計算高いのか流れに任せているのか分からない時もある。だが世間の流れは尋常じゃないからいつでも刃向かうのは不可能だ。それでもセンパイは立ち塞がる。でも、ほんとうは完璧じゃないし、全然偉くもないんだよ。分かっているけれど、時偶思う。神様みたい。

 センパイは、かみさまみたい。


 オレンジ色の髪の毛をした、天才で阿呆な、神様。 (かなしくて、さびしがりや)


 たいようみたいなひと。見れば目が潰れると分かっているのに見ずには居られない。神様にくちづけをしよう。太陽にくちづけをしよう。やさしいものは怖いから、あたたかなものも恐ろしいから、せめて、


「ちゃんと貸し出しカード出してくださいね」
「細ケェー」
「基本です。さっさと裏表紙のカード出してください。記入だけはやりますから」


 眉、へたれてますよ。そう言おうとして口を噤んだ。

 センパイにはそんなの似合わない。不敵に笑ってる方がお似合いだ。だからそんな嬉しい様な悲しい様な良く分からない顔をしないでください。誰かがセンパイを責めても、私はセンパイを責めない。

 善と悪。縛られたらお終い。
 私が神に縋っているとしても、センパイはひとりきりで立っているんだから、お釣りがくるんじゃないのかな。もし私が目に見える形で善と悪を判別出来るとしても、パブロフの犬の様に惑わされたりしない様にするのが大変だ。善も悪もひとを惑わす。センパイが目の前に居る事実が惑わされるのと、同じみたいに。