だって、これ以上抱きしめれば壊れてしまうだろう
「ギャー! ち、ちちち、血が出てますわヨ!」
「ちょっと怪我したんですよ」
「ショ、消毒! ガーゼ、包帯、……あとなんダ!?」
久しぶりに見るセンパイの動揺しきった、――演技。
此処最近吃驚する位大人しかったから、反動でもきたのだろうか。センパイはダバダバしながら保健室中を駆け回り、棚を開け閉めしながら消毒液を探している。私の目がおかしくなければ、私の目の前にあるのが消毒液だと思うし、取り敢えず水で少し洗ったから平気だと思うのだけれど。
「こんなの絆創膏貼り付けておけば治りますよ」
「血を侮っちゃならヌ! 身体の一部に穴が開けば其処から見る見るうちに中身がドヴァーっと……」
「私を人外にしないでもらえますか。センパイが考えてるような緑色の液体は出てきませんよ」
「いや、ハチミツ」
「阿呆。」
センパイが自分の教室に常駐しない事には特別もう関わり合ったりしないのだけれど、私の教室に来ないと思ったら保健室で時間を持て余していたのか。それならば一層、私のクラスにお忍べないお忍びで着て欲しいものだ。私の勉強も捗ったり捗らなかったりするし、何にせよ私が、 (……どうなのだろう?)
結び方が奇妙に硬く絞る様に締められた為に、取れなくなった止血用のガーゼを巻きながら保健室に置いてある長い机の上に放り投げられた紙を見た。センパイは私の一挙一動に関心を払っているようだったが、敢えてその私の行動は許容した様だった。私は紙を見た。進路表だ。卒業後の進路を決定する、一生関わる問題の、内容。「第一進路希望」。其処にはえらく角ばった文字で「軍」と記載されている。恐らく定規でも使ったのだろうか。センパイの字だとゆう確証は無い。
「ヨウ素とヨウ化カリウムとをエタノールに溶かした液体でイイじゃろうか。ヨウ自体に殺菌・坑ウィルス作用があるので外用の殺菌消毒にはコレが一番! ドイツ語でJodtinktur!」
「ヨードチンキですよね。ガーゼの結び目取れないんですけど、」
「ア、ハサミで切ッチャッテ」
「私、いちおう怪我人なんですが」
保健室のベッドにはカーテンがしてあった。恐らく誰か寝ているのだろう。
私は言われた通りにガーゼをハサミで切りながら、センパイを見た。今更センパイが血に対して驚く方がおかしいし、対応もしっかりしている。血は止まっただろう。私は咽頭に何かが詰まったかの様な感覚を味わいながら、次の言葉を放つ。言わなくてもいいのに。後に後悔する羽目に成る。
「ほんとうに、軍、に行くんですか」
やっぱり私の言葉は途切れた。だらしなく、格好悪く。
何故だか泣きそうになった。悲しくなった。けれど泣くのは私の役目では無い。
センパイはボール状のガーゼにヨードチンキを含ませながら私の傷跡を見て、己が受けた傷の様に顔を皺めた。ぽんぽん、と軽くヨードチンキを当てながら、センパイは又痛ましい顔をする。その繰り返しだった。付けては痛み、付けては痛んだ。痛覚が働いているのは私の筈なのに、センパイは痛みを味わった。
痛くて、痛くて堪らなくて、声にも出せなくて、ただ痛みの箇所を抑え込むような。
「痛い」、と口に出しては成らないのだ。
血は止まっていた。傷も深くない。なのにセンパイは一生残る傷跡を手当てしているかの様な顔をし続けていた。悲壮な顔。私の問いに答える事も無く、静かに時間だけが過ぎてゆく。センパイは曖昧で意味深な笑みを口角に表しながらも、それを声にしなかった。
(はやく、抱きしめてあげなくちゃ!) ほんとうなら、いつもならば噴出すように笑い出すひとが、いまは笑っていない。密かに笑みを湛えながらも、かなしみとくるしみで葛藤している。
(はやく!) 頭の奥がひどく冷え切っているのに、身体は熱を抱いている。この熱をセンパイに、あげなくちゃ。
私はひどく冷静だ。吐き気がする程冷静だ。
「――、ハナシテ」
(ハナサナイデ)
「離しません」
(だって、飛び去ってしまうのでしょう?)
センパイの身体は物凄く冷たくて冷え切っていて、小柄で繊細なにおいがして、私の腕の中にすっぽり納まってしまう程小さな身体をしているのに、いつもあんなに大きく振舞うからもう少し大きく感じてしまう。普段じっとしていないから、もっと大きく見えるのに、ほんとうはこんなに小さい。小さな小さな、子供だ。
私はセンパイを抱き締めながらもその手が震えている事を確かに感じていた。
私は震えていた。小刻みに、しかし確実に。センパイを抱き締めるのが罪でないとすれば、一体何が罪に成るのか。それはセンパイのこころの中への侵入だ。罪への制裁はセンパイが下す。匙加減はセンパイ次第。私はいま正にその侵入を果たそうとしている。頭の奥は冷静で、やめろ。と淡々と忠告している。やめるべきだ。早く離しなさい。今直ぐにセンパイを離すべきだ。そうすれば自分の為に成る。なのに腕は離れない。指が離れない。身体が離れない。頭は、置いていかれた。
「軍、行くんダ」
「見ました」
「行くんダ」
「はい」
最も近しい距離で聞こえるセンパイの声がむず痒い。
そして、残酷なまでに、
ちいさなひと。いつも阿呆な迄に活発に動いているから、大変な事を遣って退けるから、軍人を撒いた。だとかゆうから、オレンジ色の髪の毛がくちびるに当たってどきり、とした。センパイの髪の毛。
気が狂ってしまうそう。もう狂っているのかも知れない。
狂っているから抱き締められるんだ。ふつうならば抱き締めない。
こんな風に、抱き締めて、震えて、離れようとしないなんて、狂ってる。
狂ってる。
私は、少なくとも私は、センパイとの出会いに後悔なんてひとつも見出せませんでした。
なにひとつ正しい事も無かったけれど、なにひとつ後悔すら無かった。なにひとつ。センパイは触れられるとびくり、として、私はセンパイに触れるとどきり、として、ふたりで震え合ってる事に気付いて笑ったり、時々しょうもなく弱くなったり、それでも、紛い物の太陽にくちづけしたのは間違いでは無いのだから。
これ以上抱き締めていたら壊れてしまう。私も、センパイも、共倒れだ。
そんなの駄目だ。そんなのは、駄目なんだ。共倒れなんて馬鹿が遣る事だ。センパイも私も死ぬ事を望んでいない。少なくともセンパイは破滅の道を望んでいるけれど、それは己が破滅に導く事を期待しているのだ。センパイは何にも期待をしないけれど、私の言葉を待っている。稚拙な私の言葉を待つ。
「センパイ、軍に入ったら、ぜんぶ、ぶっ壊してください」
センパイは一方的に私に抱きすくめられながら、私の言葉に大きく頷いた。
「ぜんぶ、」
「ゼンブ」
「でも、」
「デモ?」
でも、せめて私が居た事だけは思いの端にでもいいから覚えておいてください。だとか、
この学校だけはぶっ壊さないでください。とか、中途半端に破滅的な事を思った。
私は私が大事だし、私の事と成れば他のどんな事よりも優先するし、それが人間だと思っているから、センパイの事を想った時に胸がくるしくなるのも当然だと感じている。センパイが全部ぶっ壊す日が着たらその時私は既に居ないのだろう。と何となく予想が真実に近しい事を知った。だから、私が何をセンパイに願ってもその時私は居ないのだから、全て無駄なのだ。その時迄私が生き延びていれば別の話だが。
「デモ?」
私はセンパイから身体を離した。
センパイを一方的に抱き締めていたのは数秒の筈なのに、それは永遠に感じた。私は永遠を終えた。もう遣る事は無い。そう思ったら身体中の筋肉が全て脱力してしまった。もう何もやりたくないと心底痛感した。長く深い溜息はセンパイの不安を煽った様だった。センパイなりに心配をしている事を知ったのが私の運の尽きだろうか。兎に角、私は、泣きそうだった。
「デモ、何? あたし、壊すヨ、何もかも全部。だけど、……ちがう!」
「何が違うんですか?」
「壊しちゃいけないものもあると思うんダ。デモ、あたしソレを、…………知ラナイ。」
――初めて聞いたセンパイの言葉だった。
それが生涯聞く事の無い言葉だと知るのは随分後だ。
センパイは結局最後迄知る事が出来なかった。壊してはならないもの、壊さねばならぬもの。後者は辛うじて知っていたかも知れないが、いまとなっては確かめる術を知らない。センパイは自分の身体から離れたぬくもりが急に恋しくなって、私を不安そうな目で見上げた。だって、これ以上抱き締めたら、
もしかしたら、全てぶち壊れてしまえばいいと願っているのは私の方が強かったのかも知れない。日常生活の愛おしさに気付けず、安穏とした日々に嫌気が差し、中途半端に破滅的で。
センパイには知識も知恵もあった。用いる術も知っていた。だからセンパイの危うさには誰も気付けないし気付かせない自信がセンパイにはあった。泥だらけの世界で泥塗れで戦ってるセンパイに届く言葉は滅多に無く、オレンジ色の髪を靡かせながら不敵に笑っているのだ。「いまにみてろ」。その言葉のほんとうの意味を知っているものにとっては、それは悲劇の言葉にしか聞こえない。センパイを知っている人間には悲嘆の言葉にしか聞こえない。だって、
(それは、自分に対しての、)
「今から探せばいいんですよ。生き急ぐ必要なんて何処にも無いんですよ」
「イマカラ?」
「そうです。いまから、創めればいいんです」
「ワーオ!」
「だって、未だ、」
だって、未だ、僕達はスタートラインにすら立っていないのだから。
ゴールが見える訳無いのだ。
これからセンパイが何を壊すに至り、何を壊さずに至るのか、私は知る事は無い。センパイは右手首の銀色のブレスレットに因って軍へ行く。卒業後、直ぐに軍に行ってしまう。だからそれ以降の事は私は知らない。私は先程センパイを抱き締めていた際にずれた、センパイから貰った黒色のネクタイを直しながら、とっくに血の止まった傷跡を見た。そういえば何故養護教諭が居ないのだろう。どうせセンパイの事だから「保健室ジャック」、とゆう名目で追い出したりしたのだろう。
血は止まったのに、私の心臓は破裂しそうだ。
張り裂けて止まってしまいそう! くちびるに触れたセンパイの髪の毛の感触や、ちいさな肩を思い返して私は思わず赤面する。先刻からセンパイはちっともこっちを見ない所を見ると、余程動転したのか、それとも照れているのか、私を嫌ったのか、何かなのだろう。それでも構わない。私は後悔等しないのだから。