彼女にとって自分の存在は、果たして天国と出るか地獄と出るか
笑っているのがいい。とゆわれた。
笑っている方がかわいい。笑っている方が愛らしい。笑っている方がやさしく見える。笑っていればみんなの人気者になれる。笑っていればどんな苦難も乗り越えられる。だから笑っていなさい。最後は説教染みた言葉だったけど、格段間違った事を触れ回ってる訳でも無かったので、アア、そうかィ。と笑った。
学校にはしばしばカウンセラーが来る。スクールカウンセラーの導入がうんたらこうたらとゆうのは昔聞いた事がある。だけれど自分には特別関係の無い事だろうと高を括っていたら、対象者として一番最初に名前が飛び出したのがあたしだった。今更精神分析をされても、ああゆうテストは個人的に好かない。とゆうよりも、答えを言われる前に大体分析傾向が分かってしまう為に効果は期待出来ない。寧ろしてない。折角の時間が台無しだし、気分も悪くなる。自分の論じた定義が正しいと信じて疑わない。だが事実無根なのである。とゆう訳で、一週間に数日訪れるカウンセラーにあたしはゆった。
「質問に対しYES、NOで答えるYG検査。就職試験の常連とも成っている内田クレペリン検査。様々な用途で用いられる血液型に因る人間学。ソシテ臨床心理士ご定番のロールシャッハテスト。サテ、これらは全て事実無根な心理学者の勝手たる杜撰なデータから出た検査結果だとゆう事が公に成っているイマ、諸君、ドウヤッテあたしを満足させてくれるのかネ?」
その日からカウンセラーは学校には来るがあたしを呼ばなくなった。呼ばれなくなったあたしは清々した。といった感じだった。こうゆうと市川ぴょんは鼻で笑う。あたしも釣られて笑う。市川ぴょんは、「センパイらしい」。とゆうから、あたしらしいって何だろう。と不意に考えてしまう。杞憂に終わる考えが愛おしいと思うのは異常なのだろう。あたしは市川ぴょんの隣で笑い、市川ぴょんは勉強をする。時々勉強を手伝って、そうやって時間を過ごす。ふたりで、過ごす。
市川ぴょんをカウンセラーが指名したのはそれから数週間後の話だった。
あたしは、くだらないから行くナ。と言った。奴等はほんとう心底くだらないからだ。時偶心理学者は、戦略的な騙しとあたたかな嘘とゆう表現を使う。どっちも嘘に相違ない。嘘は最後まで嘘なのだ。偽名を使っているあたしが言うのも何だけど、嘘はやっぱり嘘で、最後には嘘に戻る。どんなやさしい嘘でもいとおしい嘘でも、見抜けても見抜けなくても、嘘に成るから、だから大嫌いだ。
「呼び出されたら行かなくちゃいけないんです」
「クダラネーのに?」
「くだらなくてもです。その間は授業欠席の扱いには成らない筈ですし、センパイはどうしますか?」
あたしは唯、市川ぴょんの隣に座り、他愛も無い事で笑い、
ふれあっていたかった、だけなのに。
あたしは首を横に振った。
市川ぴょんは困惑した表情を宿した。
とことん罪作りだね。望み通りには動けないんだ。一緒に居たいけど、くだらない奴と話したくないんだ。あたしは市川ぴょんから離れて、ふらりふらりと宛てもなく彷徨った。
社会心理学ではこんな事が言われている。一般に、個が確立されていない社会や、精神的に未成熟な子供は集団心理に流され易い傾向がある。是非を確実に判断せず、斉一性の原理に因り異論の存在を許さないのだ。そして得られた結果、つまり規範を擁護する為に自薦の用心棒が現れ、更に反対意見を潰してゆくのだ。そんな事を繰り返していく内に、いつしか無意識的に嘘の事実を合理化し、集団心理は発生する。社会はそうして廻る。千九百三十年代に起きたドイツ国民の異常とも取れるナチス支持が良く分かる例かも知れない。
万人が万人同じ回答をする訳でも無いのにも関わらず、心理学は酷く曖昧な箇所に存在する。
心理学で行われるテストに沢山の穴や嘘が見つかった結果、カウンセリングは意味が無くなる。少なくともあたしに行われるカウンセリングに意味は無い。カウンセリングとは、クライエントがカウンセラーとの話し合いを通じて自分の問題を相談し、適切な援助を与え、解決の糸口を探すものである。
「……くだらん」
カウンセリングの主な対象者は発達や人間関係で悩んでる人だ。心理療法や精神療法とは違う。カウンセリングの技法は重視するもので変わって、情を重視する場合は来談者中心療法、思考は論理療法、自己受容はゲシュタルト療法、意志は実存主義的アプローチ、行動は認知行動療法、無意識の過程は精神分析法、人格の役割は交流分析等が有名。基礎技法として傾聴があるが、傾聴なんて人との対話の中で中心核を担うものじゃないか。何だって又技法なんかに割り当てられるんだ。
あたしは未だ若い。幼い。カウンセラーよりも何十歳も年下で、経験も足らぬとゆう。
知識があっても経験を積まなければ意味が無いと、ゆう。
あたしはいまより先の事は知らない。明日の事は未来過ぎて分からない。一秒先の事も分からない。一寸先は闇。一寸後ろもきっと闇。動いたら泥の中。動かなくても泥の中。片方の足は炎の中。スキップして飛び込もう。闇の中へ。暗闇の、その又奥深く。暗がりを覗き込んでキスでも送ってやろう。人が思わず目を背けたくなる様な場所で、咄嗟に逃げたくなるような事をたくさんたくさんしよう。
それってものすごく素敵な事じゃないかネ。暗闇で最悪だと分かっていて飛び込むのは億劫だけど幸福な事だ。何でって、このちいさな手で掴めるものはほんの僅かなものだけなのだから。
市川ぴょんはカウンセリングを受けに行ってしまった。
あんな場所で問題解決が出来るならば、人類みんなしあわせだ。
(ふがいないや)
授業中。宛てがない。シンとした学校。響くチョークの音。
時計の針の音がいやに大きく聞こえる。
誰も居ない廊下。
あたしひとり。
何気無く振り返る。誰も居ない。当たり前だ。今は授業中。ドッ、と笑い声。気にせずにあたしは歩いてゆく。止まっちゃ駄目だ。止まったら呑み込まれる。止まらなくても呑み込まれる。果たしてどちらが得策なのかは知らないが、呑み込まれてやるのは癪だ。あたしを呑み込みたきゃ命懸けでかかってこい。
気高くて自由で勝手気儘で我儘でエゴイストで甘ったれで格好良くてひどく好い加減なオレンジ色の猫は、何処からか持って来た毛布 (たぶん保健室だ、ごめんなさい) を身体に巻き付けて廊下に寝転がっていた。ただ寝転がってるだけで、寝息は立ててなかった。何か言いたげに口を噤み、眼球だけ動かした。
「終わりましたよ」
ソウ。
頭の中でセンパイがそう言った。
「くだらなかったです」
ヤッパリ。
「人間関係に問題が無いか。とか、センパイとは普段どう接してるのか。とか、」
ウン。
「どうでもいいこと、ばっかり」
だろうネ。
「センパイと喋ってる方がよっぽど面白いですよ」
センパイは笑った。口の中に笑いを含み、肩で笑っていた。
きっとセンパイは私がこうゆう事を知っていたのだろう。何となくそう感じた。センパイは計算高いから、私がこう思う事を想定して、行くナ。ってゆったんだろうな。そう感じた。そういえば気付かなかったけれど、センパイがそんな言葉をゆうのは珍しいですね。早く気付けば良かった。そうすればセンパイと一緒に居られたのに。私は毛布に包まっている自由気儘な猫の傍に寄った。
器用に眼球だけ動かして私の相槌を打つセンパイは、いつもと違って何処と無く卑屈に見えた。失礼かも知れないけれど、私の知っているセンパイはもっとこう、「ホラ、見ろ」。とでも言う様なひとだと思っていたから。私の言葉を肯定して聞き入れるセンパイは、普段のセンパイらしからぬ雰囲気を醸し出していた。異質なひとが正常を気取るとこんな感じなのだろう。センパイは目蓋を閉じた。それだけで私はセンパイの世界から隔離された気がした。何故だろう、酷く不安だった。
「センパイ、」
目を開けて、私を見て。
わたしをみて、なにかゆって。
センパイは目蓋を伏せた儘だった。
私はたったいま、センパイの世界から追い出された。
「――センパイ!」
思わず肩を掴んだ。ごつ、とゆう奇妙な感覚。眩暈を覚えた。血が、脈が、熱が、足りなくて、センパイに足りなくてどうすればいいのか分からなくて、私は口に宛がった手が震えているのを感じながらどうすればいいのかつぶやいて、なにひとつ確証がついてくるものが無かったので私は途方に暮れた。ずっと私はセンパイの世界に居ると思っていた。何の努力もせず、キープし続けていると思い込んでいた。でも、でもこんなに簡単に、私はセンパイの世界から追い出されて、そしてその後の術が分からずにもがいている。
センパイは毛布に包まりながら目蓋を下ろし、世界総てから自分を隔離している。センパイの世界から私が追い出されたのではないと分かったのは後で、センパイが今迄暮らしていた世界から自分を遠ざけたのだと知る。もう関わらないでくれ。センパイはそう世界にゆった。けれどそのセンパイの声を聞き入れる事は出来なかった。センパイは必要とされていた。だから誰も認めなかった。センパイは毛布に包まりながら息を吐く。ふつうに成るのは何よりも難しい。
「センパイ、起きてください。風邪引きますよ」
引き戻してあげなくては成らない。それが分かった今、取る行動は限られている。去ってゆくこのひとを引き止めて、意地でも戻してやらなくてはならない。それは善かも知れないし悪かも知れない。センパイにとっては限りなく悪行に近しい事なのだろうか。拒絶する人間を無理矢理正すのだから、それは、悪だ。
でも私はいまセンパイに居なくなられると非常に困るのだ。消えられると困るのだ。
私の一存でほんとうに悪いけれど、センパイの居ない学校生活なんてきっと退屈で暇で耐えられない。死んでしまいそう。センパイが必要なのだ。どうしても、どうやっても。
これは、好きだとか愛してるとか、そうゆうレヴェルの問題じゃない。
「お願いします。起きてください。それから教室戻りましょう」
好きとか、あいしてるとか、そんなレヴェルの問題じゃないんだ。死活問題なんだよ。センパイが息をするのをやめてしまったら、きっと私の息も止まってしまうんだろう。良い意味でも悪い意味でも、センパイが必要で、必要過ぎて追い求め過ぎて、時にくるしくなってしまう。仕方のない事なのに、罪悪感で一杯だ。