Eの足りない楽譜
ラララ、ララ、ラララ。
センパイは酸素の足りない魚の真似をする。口をぱくぱくと動かして胸や腹を上下させ、啄ばむ様にくちびるを尖らせては、ラララと歌う。音階に気付いたのは直ぐだったけれど、センパイが何をしたいのか分からなかったから私はセンパイを放流しておいた。視界の中にセンパイが常時持ち歩いているお菓子鞄を留めながら。帰る時は雨が沢山入ったこの鞄を持ち帰るだろう。
センパイは音程を直す様に歌った。ラララ。
正しい場所に音が戻る様に歌う。ララ。
新たなメロディーを奏でる。ラララ。
時折指揮者の様にタクトを振るフリをした。きっとセンパイの中では巨大なオーケストラが奇妙奇天烈な曲を奏でているのだろう。曲には成っていないのかも知れない。もしかして各々が好き勝手奏でているだけの唯の音の集まりかも知れない。音をひとつひとつ拾ってセンパイはメロディーへと変貌させる。その技が何と呼ばれるのか分からないが、私が知っている言葉を総動員すれば、「天才」の二文字に尽きる。
とても楽しそうな横顔の中に、真面目な光が一瞬点って消える。まるで波の様な仕草。荒れ狂う波の中で優雅に泳ぐ酸素の足りない魚。どきり、とした。はっ、とした。
「市川ぴょん、」
「…………はい?」
「あのサ」
光り輝く音の海。典雅に微笑む君。けれど何処か物足りない顔。
(僕だけがその答えを知っているとゆったら、余りにおこがましいだろうか)
「生きるって、ナニ」
「は、」
抑圧し続けていると、メロディーは時偶、創造主を襲う。何事も同じだ。創り出したものに襲われる危険性を一番重要視しているのは、創造主なのだから。人間は呼吸をして生きている。音だって生きている。文字も生きている。思考だって生きている。それ等を言ってゆけば終わりは無い。センパイが私のノートに描いた落書きだって生きていたけれど、私はそれを直ぐに消した。殺したのだ。私が消さなくてもセンパイはいつか絶対消すだろう。それが早かっただけ。たった、それだけ。
「生き続ける理由は、何となく分かル。此処で終わりたくないのヨ! まだまだ未知数なのヨ! ソレを証明するには生き続けるのが何よりの証拠かも知れん。おっ死んじまえば、誰もが其処迄の人間だったのダ。と思うだろう。論より証拠。毎日飽きもせずあたしに届くプレゼント数々」
センパイ曰く。「あたしに殺される人間はヤハリ其処迄の野郎なのダ」。
物騒な話だけれど、何だか今迄聞いたどんなお話よりも信じられる話だと思った。どんなに偉い学者が説く教えよりも、宗教家の話よりも、説得力のある話だと思った。センパイの話し方がふつうの話し方よりも逸脱してるからなのかも知れない。私はどんな教えよりもセンパイの話の方が大事なのだから。
いつも投げやりな視線の先に銀色がちらつく。銀色の、センパイを軍へ結び付けるゆいいつのものがちらつく。意図的なのだろうか。センパイは極悪人だから知っていてやっているのだろう。私がそれを読み取るのもすべて計算して行動している。私の行動パターンなんて簡単だ。
「そんな野郎共の叫びをミキサーにかけてミマシタ」
「……譜面?」
「生涯唯一の作品」
そう、私の行動パターンなんて単純明快。センパイが楽しい方へ一緒に転ぶ。
私は結局それ迄の人間に過ぎない。
「でもこれ、何で所々空いてるんですか?」
「好きな音入れて歌うんDEATH!」
センパイの意図はさっぱり分からない。今正に創られたと言うよりも、予め創られていたかの様に几帳面に丸が描かれた音符。誰が創ったかなんて分かるひとは居ないだろう。センパイが何気無く鼻歌を奏でるから、私は急いで譜面に目をやったけれど、センパイがどの部分を奏でているのかは分からなかった。情けない私の眼が、音符を追う。兎を追うアリスのように。
此処で終わりたくない。こんな所で終わりたくない。未だ可能性は残っているのかも知れないんだから立ち上がる意味はある筈だ。何事もスタートラインに立たねば始まらない。何が起きるか分からないから楽しいのだ。そんな見切り発車は、極度の阿呆か、何が起きても平然としない鉛の様なこころを持ったものにだけ赦される。そう、たとえば、目の前の、
(メアリーアン、ぼくに心臓を)
「マダマダァ」
「全然分からないのですが」
「市川ぴょんにあげリュ」
「そう言いながらも数日後にはセンパイの手の中で燃やしてるんじゃないんですか。まあ、これは未完成だから私にはどうにも出来ませんけど。証拠隠滅得意ですもんね、センパイは、」
言い掛けて、
やめた。
そうしたらセンパイはニヤリと弧を描き、あくどい笑みで私を惑わす。
「今出来る最大限の悪あがきをしようジャマイカ、相棒」
ぼくを、まどわす。
「――拒否権は、無いんですね」
「応!」
付き合いますよ、とことん。嫌って言う程付き合ってあげますよ。
センパイがこちらに伸ばす拳。私も真似をして拳を突き出した。拳と拳がぶつかって、私達はちいさな声で笑った。ひみつのおはなし。内緒を分かち合う唯の友人みたいに楽しそうに笑うから、そう、幼子の様に屈託無くセンパイが笑うから、
(ああ、かみさま、どうかお願いです)