しかしながら、しかしながら

 人が人を裁いては成らない。
 しかしながら、裁判官とゆう職務がある以上、人を裁けるのは人だけだ。


「絶対有罪ですよ、この人」
「マア、有力な物的証拠が無かったので証拠不十分でSHOW」


 広げた新聞にはいつもの通り他愛無いニュースの数々が広がっていて、一面を飾るのは世間を賑わす事件だったりスキャンダルだったり、編集手帳や明日の天気なんて読んでからセンパイは新聞を棄てた。


「燃やすんですか?」
「指紋付いたしナー」


 センパイはと言うと矢張りいつも通り証拠隠滅に力を注いでおり、私はいつも通りそれを見守るに徹している。しかしながら、それも長くは許されない。もう下校時刻はとっくに過ぎているし、見回りの先生が直にこの教室にも見回りに来るからだ。見つかれば何か言われるに決まっている。くだらない事をごちゃごちゃ言われるのは誰だって好きではない。無闇矢鱈に呼び出されるのも嫌いだ。

 くだらない事やどうでもいい事を口車に乗せられて喚き散らかされるのは好きではないし、意味も無い。しかしながらそうゆう建前で軟禁させられるのだからそれから逃れなければ成らない。逃げるには下校という手段が一般的だ。と言う訳で本日の会話はこれにて終幕。


「じゃあ、私帰りますね」
「市川ぴょん」


 しかしながら、本日は閉幕。


「ネェ、」


 しかしながら、





「ネェー、早くー」
「誰もがセンパイみたいに運動神経抜群だと思ったら大間違いですよ」


 センパイは石と石の間をぴょんぴょんと器用に跳ね、川縁に近付いて川の水を掬った。
 この辺りの川なんて汚染しきってとてもじゃないけれど飲めたもんじゃない。川の水は濁っているし、怪しい生物なんかも潜んでいるし、ヒルも居そうだし、風は気持ちいいけれどそれも一瞬だけだ。惑わされてはいけない。気持ちが良いのは一瞬だけ。後は全て不快指数。


「何を見に来たんですか?」
「何ニモー」


 しかしながら、目の前の阿呆と天才を足して何かで割った様なひとは、物事をそう淡白に捉えられないので、何か企んでいる事は百も承知だ。その企みを見抜けないのは私が劣っているから。このひとに追い付くにはもっとずっと進歩しなければ成らない。進化ではなまぬるいのだ。

 私の不快指数はどんどん上昇していく。訳が分からない。センパイに付き合わされて川迄遣ってきたものの、先生達から逃げる以外の理由が分からない。しかしながら、目の前でこうもうつくしく笑われると怒る気力も失せると言ったものだ。うつくしく笑ってから、一瞬立ち止まり、顔から一切の色を消す。

 センパイはオレンジ色の髪の毛を風に靡かせ、青とも透明とも呼べない川縁に立っている。
 音も無く、静かに、端正な顔をして。


「センパイ?」
「ウン」


 問いを肯定で返さないでくれますか。そう言おうとして言葉が咽頭に詰まった。
 余りにも精錬し過ぎた表情をしているから呼吸が止まってしまったじゃないか。文句を言おうと思ったけど矢張り喉で詰まった。言葉は出掛かり此処迄来ているのにその先を踏み出せない。魔法が掛かっているみたいだ。それも呪いの様な。しかしながら、センパイは簡単に次の言葉をゆう。


「この川の水、海迄行くのかナ」


 センパイが分からない事が私に分かると思いますか?
 そう言う前にセンパイは尚続けた。


「ワチキも流れてみてえナー」


 しかしながらその言葉は逃走とゆう意味を齎してはくれない。求めていたのは現状からの脱出では無かったからだ。単なる思いを馳せただけなのか否か。答えは誰にも分からない。センパイが生涯に懸けてその答えを見出す筈だったのを知らない。センパイはにへらと笑っていつも通りの笑みを浮かべた。安堵が遣ってくるのはそのずっと後の話だった。センパイが笑えば私のこころはいっぱいに成るのだから容易いもので。しかしながらセンパイのこころはいつに成ってもいっぱいに成らない訳で。


「今度海に行きましょうか」
「行きたいノウ」


 しかしながら、僕等は最後迄一緒に海に行く事は無かった。