なつかしいといつかわらえる

「煮沸して何作る気ですか?」
「無難にコーヒーでも淹れようカト」
「そんな回りくどい事しなくても職員室に行けば幾らでも手に入りますよ」


 それにビーカーや三角フラスコに入っている珈琲を飲みたいとは思わないだろうし、私も飲みたくないし、其処迄遣って飲む意味があるのかと問われれば答えはイエスと導かれるのだろう。このひとの遣っている全ての事にはそれなりに意味がありそうで、やっぱり私には分からないのだから。


「初めて実験器具見た時サァ、こんなの人間が作れるのスゲェって思った」
「初めては何を作ったんですか?」
「サァネ」


 初めては昔過ぎて覚えてないヨ。とセンパイが余りにも美しく笑うから私はその先の言葉を訊く事は出来なかった。時折反則の笑顔を見せるセンパイは同時に自分を物凄く皮肉っていて、私がそれを知る事は無いにしろ、罵言を己に浴びせる内なるセンパイは早く居なくなればいいのにと私はその度に思う。早く居なくなってしまえ。其処におまえの居場所は無い。 (ああ、かみさま、はやく)

 センパイは我儘で勝手でどうしようもなく独り善がりな部分があるけれど、そうゆう部分を私に見せているとゆう状況は必ずしも悲しいお話では無いのじゃないか。と私は思う。センパイを知り尽くす事が可能だろうが不可能だろうが、私はいまのポジションから離れる気は更々無いのだから。


「又呼び出されてましたよ、今日何回目ですか?」
「呼び出したい暇人はホットケ」


 そんなセンパイは今日も職員室のあらゆる先生から呼び出しを受けていて、それを全部蹴飛ばしていま理科実験室に居座っているのだから根性は図太く、ぷくぷくと水が煮沸されていくアルコールランプの先の炎を何となく見遣りながら横目でセンパイを観察していると、センパイは良く実験で使う薄い用紙の上で正確に軽量してから、三角フラスコの底に茶色の粉を少量入れている。


「コーヒーって嘘じゃなかったんですね」
「ソンナ! 信じてなかったナンテ!」
「信じられると思ってたんですか、これっぽっち位」
「イイエー」


 私が「これっぽっち」を指で示しながら強調して言うと、センパイはさらりとほんとうの事を零す。インスタントコーヒーを何処で仕入れたのか問うと怖いので訊かないけれど、 (恐らく職員室の先生方が迷惑を被っているのだろうし) 甘い甘い飴を普段から好んで舐めているセンパイが珈琲なんて似合わないと言ったら笑われるのだろうか。紅茶の方が似合うと言ったらティーパックを手に入れる為に又職員室がジャックされるんだろうし。それで又呼び出しが増えるだけなのだろうし。


「ほんとに職員室に行かなくていいんですか。カンカンに怒ってましたよ先生達。何やらかしたんですか? それ位教えてくれたって良いじゃないですか」
「怒られるような事をしたのだヨ」


 まあ、それを言った所で、怒っている人間が宥められる訳でも無ければ、センパイを職員室に行かせる材料には成らないんだろうし、私が訊いた所で何かが変わる節も見られないのでこれ以上この問題に付いて訊くのは諦めた。私だって月並みな言葉を並べれば、センパイに目の前から消えられるのはほとほと御免なので、我儘だとは痛感しつつもおいそれと先生方にセンパイを預ける気等更々無い。


「初めて見た時はこころでも奪われました?」
「ウン。で、ジャックした」
「やっぱり」


 こぽこぽと煮沸完了したお湯をセンパイは三角フラスコに注いで、其処迄して飲みたいらしいインスタントコーヒーを完成させた。砂糖はどうするのかと思って見ていたら、角砂糖が手品の様に出てきた。


「どっから」
「職員室」


 まるで奇術師が帽子から鳩を出すように、センパイのポケットからはあらゆるものが出てくる。魔法使いのポケットの様で、そんなメルヒェンな事を私が言ったら恐らく笑われてしまうかもしくは真面目に考えるかの二択しか私には考えられない。私の考えの斜め上を突っ切るこのひとに対して予想や予測や希望や期待は不必要で、邪魔にしか成らない。足枷にしか成らないのだから私がそんな考えを抱くのは違反だ。


「笑っちまうヨ。大の大人が子供に対してあたふたしてサァ、やめなさいとかとまりなさいとか在り来たりな台詞ばっか言うの。そんなんで止まる訳ネーのに」
「センパイの怖さを知らないですからね」
「そんなんで止まるなら初めからヤンネェっつーのにサ」


 センパイは三角フラスコを左右に振りながら珈琲を眺めている。その口は奇妙に弧を描いていて、ものを懐かしむひとが良くする仕草だと不意に思った。何かを懐かしむ事をこのひとはするのだろうか。全てのものをぶち壊して進むこのひとが、何が起きてもどんな目に遭っても進むこのひとが、過去の残影に掻き乱される事があっても良いのだろうか。過去の残骸にこころをトキメかす事を曖昧に眺めていても良いのだろうか。とても不自然で成らなかったから、私は思わずセンパイを睨みながらセンパイの頭を叩いた。


「何ばしよっと」
「似合わないですよ」


 そしたらセンパイは一瞬だけ三角フラスコを振る手を止め、私の仕草に見惚れていた。


「自惚れを除いてもいま現在、センパイを叩ける人間なんてこの世で私位しか居ないでしょうね」


 そんな自尊心の欠片も無い台詞を吐いたらセンパイは溜息が零れる位うつくしく笑った。


「いいナ、ソレ」


 誰かのこころを打つ台詞とゆうのはいつ何時でも分からないものだ。
 私はこのひとに嵌って初めてその事実と対面するのだ。

 どうしよう。三角フラスコの中でインスタントコーヒーをわざわざ作るこのひとから目が離せない。頭では分かっているのに視線は容赦無く奪われる。踏み込んでは成らないのに私は足を踏み出してしまう。このひとに近付いてこのひとと一緒に時間を共有したい。私は病気なのだろうか。狂気なのだろうか。