跪かれるための才能
悲しい事に、私には自分に才能が無い事を知る才能しか無かった。
「アワ、アワ」
「ちゃんと貸し出し期限を守らないとその内追い出されますよ」
しかし特異な事実は時として不思議なものだ。
「歩く字引にでも成るつもりですか」
「他人を楽しませる趣味は無いデスワヨ」
「そういう意味で言ったんじゃないんですけどね。またそんなに分厚い本借りるんですか?」
「借りない。盗ム」
私は天才をみつけた。 (同時にとんでもなく阿呆なひとを)
(ああ、なんだってかみさまは、)
「駄目ですよ。返しましょう。返さないと怒られるのは何故だか私なんですから」
「デモもう指紋付けちまったポポーン」
日常と言うのは一日一日を過ごしていると何の気なしに過ぎていくものだが、後になってそれがどんなに大切でいとおしかったのかが分かるのだ。その日暮らしだと全く気付かないのだが、溢れる程甘く切なくほろ苦いものだったと後に知る。センパイは未来を見ていない。センパイは未来に大して興味が無いらしい。ひとは過去から構成されてると言うけれど、私はセンパイの過去を気にしない。
だってこんなに破天荒なひとだ。赤ん坊の無邪気なわがままをその儘純粋に育てた様なひとで、醜態も醜悪もぜんぶ包み込んで飲み乾してしまうのだから呆気無いもので、大人びた笑みが又もやぜんぶを引っ掻き回すのだから性質が悪く、その本質は未だ見極めが困難に近しい。
「……センパイ、殴っていいですか」
「なっ、何ジャロメ!」
「いや、ものすごく現実と認めたくない事を思い出したんで」
思えば、センパイはいつも笑っている。
陽だまりの様に笑っている。
時折、氷よりも冷めた視線で他人を貫く事もあるけれど、私と居る時は大抵笑っている。
そんなに面白いのだろうか、私との特別でも何でもないお話が、楽しいのだろうか。センパイが笑うに値するのだろうか。このひとはほんとうに楽しんでいるのだろうか。もしかしてとんでもなく計算し尽くして何百通りのパターンの中からセンパイにとって笑える話題をしているのだろうか。分からない。こうやって時々考えるとセンパイが遠く濃い霧の中のひとに思える。否、実際近付いたらカチンコチンに凍らされて凍死してしまうか、太陽に近付きすぎて焼き殺されてしまうのだろうけれど。
「司書の先生が悩んでました」
「アブラカダブラって連続で言うとサグラダファミリアみたいに成るワサ。アブラカダブラアブラカダブラアブブのブー! 語源はアラム語かヘブライ語か知らねーんスけど」
「最近、一部の本が無くなって、どうやらそれが燃やされているらしいんですけどね? センパイはその痛まない胸に向かって一度聞いてみたらどうですか。答えは私じゃなくて自己申告でお願いしますね」
つっけんどんにそう言い放つと、センパイはくちびるを尖らして反論した。
「買えるもんは買ットケ」
「寄贈の図書も燃やしてしまったんでしょう? 寄贈した側に知れたら大変な事に成りますよ」
センパイはフランス語の辞書を真ん中で開いて其処に突っ伏している。我関せずと言った態度だけれど渦中の人がとる態度ではない。さも退屈だと言わんばかりに欠伸を掻き、生理的に出てきた涙を軽く拭くと、そういァ。と言った。
「小説を書いたら売れルと思わんか」
「どんなジャンルの?」
「需要と供給があって初めて成り立つ社会の図式にひとつの疑問符を投げ掛けてみるのダ。――ある日ある時素晴らしく口の立つ子が居た。彼女の病気を治す為に幾人もの人間が立ち上がったが、彼女はこころが切迫していた為に誰の意見も聞く事をせず、誰にも自分の病気を相談する事は無かった。そうして幾年か過ぎて病気は治ったかの様に見えていたが、ある事件を切欠に自分が死ぬか相手が死ぬかの選択を迫られる。だが結局はどちらが死んでも得のしない損ばかりな結末だと相場は決まっている。彼女は頭が働くから其処迄分かってるって寸法の絶望的なお話サ」
先刻迄あんなに巫山戯ていたのにいまじゃ机の上に足を投げ出して組んでいる。くちびるを唾で潤わせながら次々に言葉を繋いでいく。その作業に余分なもの等なにひとつ無い。すべてが必要でありすべてが意味を持っている。何重にも、何層にも、センパイの暗闇のもっと奥が私は見たい。
「此処でサテ問題です。ひとって生き物は自分より可哀想な人間の話を聞きたがる。何故? 自分はその人間よりも恵まれていると認識したいからダ。だから追い込まれて絶望に満ち溢れている死のにおいがぷんぷんする小説はもしかしたら売れるかもネー」
私は見たい。その暗闇のもっと奥。深い深い谷底に、何が落ちているのか見てみたい。
君が未来に興味が無いならば、その未来を僕が確信してあげよう。
それがほんとうに売れる小説なのかは私には理解出来なかったが、もしそんな本が売られた所で私はその小説を手に取らない。読みもしない。けれどたぶんセンパイは速読なり何なりして知識として植え付けるに違いない。そういう本がひとつあったという事実を。悲劇であり喜劇であるその稚拙なお話を。誰の話なのか分からなければ徹底的に追求するだろう。墓迄も乗り込むだろう。
「Faites des be^tises, mais faites-les avec enthousiasme.」
舌をちろり、と出してふしだらな笑みを浮かべたセンパイは流暢なフランス語でそう言った。その姿が格好良くて思わず見惚れてしまったと言ったら大笑いものだろう。そう、ほんとうに、わらえる。
「ところでそれが本を燃やしたのとどんな関係が?」
「市川ぴょん、市川ぴょん。大人に成っちゃイケネーゼ。我々はピーターパン、童心忘れるべからず、価値観は常に純粋無垢。因果関係なんて野暮な話はよそーゼ。こういう話をしよう」
ひとさしゆびを立てて提唱するのは未来の話。いまは未だ見えぬ将来の不確かなお話。けれどセンパイが言葉にして発すれば全てがレールに乗って動き出す。じわりじわりと疼き出す。ゆっくりと、しかし確実に迫ってくるものからは逃げようが無い。センパイはそれをブチ壊そうとしている。全て壊れてしまえばいいと本気で思っている。私には才能が無いけれど、目の前のひとを見極める事は出来る。このひとは、まぎれもなく天才だ。さびしくて笑いながら死んでしまう天才だ。