最悪だ、しかし最低ではない
ひどいことが起きても、非道な事が起きても平気。大丈夫。だいじょうぶ。
耐えられる。何が起きても、きっと、耐えられる。耐えられない試練は与えないと神様は言った。人間の力で耐えられる試練を与えると言った。ならば与えられる試練と言うのは少なからず耐えられる仕組みに成っているのだ。天の軍勢は今し方姿を見せ、あれよあれよと言う間にやっこさんに加勢した。
「くちびる切れてますよ」
「応。寒いからネ。降り止まんなあ、雨」
当方、援軍零。戦いに赴くのはこの身ひとつで充分過ぎる。歩けるし走れるし飛べる。お膳立てにアキレアの花を一輪持って行こうか。長い戦いの中に身を沈め、浮き上がる事すら叶わずにずぶずぶと泥沼の中に飲み込まれていくだなんてとんでもない野暮は無しだ。飛んでやる、例え翼が無くっても。
「止んだら止んだで文句言うでしょう、センパイ」
「言うだろうナァ」
とまあ、豪語したは良いものの、翼が無ければ当然飛べない訳でして。無理難題、人間は鳥には成れない訳でして。だって人間だもの、鳥じゃありませんから。無理無理、流石にこれは無理。
しょうがないから地上に降りて泥塗れに成りながら勝利のガッツポーズを思い浮かべてみたけど現実味が無かったので、それじゃあ実行するのは無理な話だと結論。想像出来なかったら創造出来ませんからね。人間って想像出来たものは大抵創造出来るらしいよ。噂だけど。
「くちびる切れてますよ」
「明日の天気予報って何スか」
でもどろどろの泥の中で這い蹲って叫んでるのも中々格好悪そうで、それだったら片足燃え盛る地獄に突っ込んで高笑い決め込んでた方が良いのかなあ、なんて考えてしまう様に成ったのは屋上のフェンスの向こう側を知っているからなのかも知れないと安易な考えを有した。
「くちびる切れてますよ」
「ソンナニ?」
再三の忠告にも関わらず市川ぴょんの話を無視していた代価は大きい。予測が付かなくて分からなくて理解不足な君とのお喋りは大変愉快極まりない。くちびるに手を当てたらオウマイジーザス、ぱっくり割れて血が滲んでいた。がっさがさでお手入れしてないくちびるは偶に無意識に剥いてしまうので更に悪化している。飴や何かで潤しているんだけど、今日は何だか寒いから。
「唾付けとけば治るじゃけー」
「ずっと気に成ってたんですよ。センパイ、全然気付かないんですから」
うんまあ確かに鈍くさい所はあるかも知れない。良い意味で。皮膚の一枚や二枚が裂けようと、血管が一本位切れようと、神経が、否、神経は困るな。動かなくなるし。ちっとやそっとの傷じゃ行動しない原因には物足りないのだ。くちびる然り、切れてた所で何ぞやと言うのだ。
「リップクリームは持ってないんですか?」
「ワセリン直接塗ったら駄目だろーか」
「油膜だから大丈夫じゃないんでしょうか。私良く分かりませんけど。て言うよりその言ってるワセリンは何処から拝借してくるんですか? 疑心暗鬼にも程があると思うんですけどこれって事実ですよね」
ああ、なんてふしだらな暗雲よ。降り頻る雨の向こう側を早く見せておくれ。
「ま、パクりますわネ」
「……さいあく」
思い掛けない言葉を口にした市川ぴょんは自らも驚いた調子で口に手を当てた。そんな事しても言ってしまった言葉は元に戻らないと市川ぴょんも分かっているので、ああ、まあいっか。みたいな調子で手を離した。別にその言葉は否定じゃないよ。常々他人が抱くささやかな感想さ、自負してるから知ってる。確かにあたしが遣ってるのは最悪で阿呆みたいで退屈な事だからだ。
「センパイって最悪って思う事普通にやりますよね」
「あっ、続けんダ?」
「言っちゃいましたから、どうせなら聞いてみようと思って」
根強い魂の持主の市川ぴょんは期待に応えてくださる。ふつうならば其処で会話を一旦止めるか嫌な空気が流れるのに、それを次の言葉へ続ける市川ぴょんは相当逞しくなっているに相違ない。それともめちゃくちゃ神経が図太くなっているか。そうだな、その方が幾分も面白い。
「最悪か最悪じゃないかは当人の判断に任されるからナァ」
「世間一般から見て最悪ですよね」
「悪ダ。だが低くは無ェ」
思い上がるのも甚だしいとは良く言うが、自分を余りにも卑下するのは止めた方が宜しいとは誰も言わない。出る杭は打たれるが、沈んだ人間は引き上げられない。それが人種の所為なのかお国柄なのか分からないが、兎に角このコロニーでは才覚者は極めて排他傾向にある。
「最悪更新中の最低日を知ってるから、ダイジョーブ」
醜悪を知っている。毎日が最悪を更新し、前日より今日の方が最悪に成り、明日はそれより浮上するのかと疑えば矢張り最悪は更新された。泥を這い蹲る生活が長く続き、目や口や耳に泥が潜り込んだ。巧く見えなくなり巧く喋れなくなり、その内感情迄持っていかれる。揮い立ってみれば弾圧され、嘆いてみれば打ち消される。神よと救いを求めれば窮地は潰され、口の中の泥が叫びを奪った。
その日と比べれば今は薔薇色に輝かんばかりに煌めいている。あの日の事を思えば全てが軽々しく思え、スキップして天迄届けるんじゃないかと勘違いをする。底を知れば今は底よりも高い場所に居るのだから当然しあわせな訳だ。ブラボー、ワンダフォー。拍手喝采、この甘美な毎日へ。
「最低より上なら良いんですか?」
「パンナコッタ」
だって君、それ相当だよ? 底の底は限りがない。落ちる所迄落ちて行ったら上がるだけとは言うけれど、未だ落ちる可能性だってあるのだよ。忠告をする訳では無いけれど、此処が底だと思った瞬間に底の蓋がぱかりと開き、真っ逆さまに転落する事もしばしばある。這い上がる事は敵わない上に、例え万が一の可能性で這い上がれたとしても何年も何十年も困難な日々が続くだろう。
最低を知っている。その日の事を思えば今日はそれより良い日なのだ。最高ジャマイカ!