水中で呼吸することの息苦しさ
雨水は大部分が水であるが、微量の有機物、無機物、特に重金属類を含んでいる。これらは雲が発生する際、或いは雨となって地上に落ちてくる際に、周囲の空気や土壌から集めてくる。雨自体に臭いはないが、オゾン、湿度が上昇することによって粘土から出されるペトリコールや、土壌中の細菌が出すものでジオスミンが雨が降るときの臭いの元だと言われている。
水だけが降ってくる、或いは透明な色をしている通常の雨とは違い、様々なものが雨と一緒に降ったり、色がついた雨が降ることがある。それを特殊な雨と呼ぶ。
突風を伴った嵐の場合は、土壌の成分を含んで茶色がかった雨が降ることがある。また、黄砂などの大気中の浮遊粒子(エアロゾルなど)を含んだ黄色がかった雨、赤みがかかった雨、砂や泥を含んだ雨が降ることがある。これらは珍しい現象ではあるが、時々起こるものである。
しかし、ほとんど報告されないような珍しい雨もある。例えば、魚やカエルが一緒に降るような雨が、世界各地で報告されている。特に動物の雨は「レイニング・アニマルス」とも呼ばれる。
さて、私がどうしてこんなどうでもよい知識を思い巡らしているのかと問われれば、雨の中を傘を差して登校してきたら、目の前に蛙が降ってきたからである。蛙は私と目を合わせたのか、ゲコ、と泣いて草の中へ飛び込んで行った。蛙、と言う事は所謂レイニング・アニマルス? な訳も無いので、私は昇降口に入り傘の滴を払った。傘は盗まれたら困るので色の付いたテープを貼ってある。雨が降った時に傘を盗んでいくひとは後を絶たないのだが私にはこの位しか対抗策が思い付かない。
濡れている靴下を嫌らしく思いながら上履きに履き替えていると、昇降口の外からは「何でカエルが!?」「降ってきたよ、空から降ってきたよ! 何これ!?」、と尤もな非難が飛び交っているので、私は早足で階段を駆け上り問題の教室の扉を力一杯開けた。
「鮒は不味いでしょう」
「フナ駄目ッスか」
窓から鮒を落とそうとしている阿呆なセンパイは、輝かんばかりの笑みでこちらに向き直る。その笑顔で蛙を大量に落としていたのか、それとも私がいま理科実験室に入ってきたから表情を変えたのか、どちらにせよ余り興味が無いのでつかつかとセンパイに歩み寄ってからその脳天にチョップをした。チョップをしても止まらないひとだと知っているので、嫌味を込めて二度チョップをした。
「レイニング・アニマルス!」
「私には思い切り人的被害に見えますけど」
だって教室の窓から投げているのはセンパイだし。しかも思い切り現行犯だし。センパイは持っていた鮒をホルマリン漬けの中に戻した。て言うかそれ開けちゃったんですか。それ開けちゃいけないヤツじゃ無いんですか。ホルマリン漬けって事はもうとっくに死んでるんじゃないんですか。死んでる鮒を投げようとしたんですか。それはもっと駄目な事だ、と言うか下でぶつかったらトラウマに成る。
「十匹以上投げてますね。下、悲惨な事になってますよ」
「これから解剖するってーのに情けない奴等だのう」
「解剖する頃には死んでますからね」
「ワチキは死体に興味は無ェナ」
それにしても私は面白い引出しを持っていない。空から蛙が降ってきたら迷わずセンパイの犯行だと決め付けてしまう程に悪い意味で精錬されてしまっている。決め付けるって言うか、ほんとうにそうなんだけど。結構な確率で正解するんだけれど。たぶん私以外が予測を立てても同じ様な正解率に成るだろう。
センパイはぽいぽい蛙を窓から投げ捨て、その度に下から聞こえてくる絶叫に喉の奥を震わせている。センパイにとって、おこがましい話なのだが、私以外の人間の反応は大した時間潰しには成らないらしい。だからセンパイが喉の奥を震わせているのは、愉快と言う訳では無く、ふつうの人間ならばこれ位の反応だろうナ、程度の情報に過ぎない。私だけの反応を見たいが為の蛙投げ落とし作戦は又もやセンパイの目論見通りに成った訳だ。悔しいと思う事はとっくに止めている。感嘆の意を表明する。
雨の日は少し呼吸がし辛く感じるのは勘違いではない筈だ。こんな日は蛙が羨ましい。人間と言う高等な生き物に生まれてきたのに、そんな下等生物にそんな感情を抱くなんて馬鹿みたいだ。そう私が卑下しても、センパイは笑って、そうだネ、と言うだけなんだろうけれど。
「蛙、逃がしても、先生達が捕まえますよ」
「ならメスも投げてやんヨ」
「危ないですよ」
「人には当てん」
人には当てない様にメスを投げる事が容易ならば、蛙を投げ落とす事はもっと容易だろう。
センパイの遣っている事は分かる。授業の妨害、解剖の実験用の蛙を逃がす作業。
分かっている筈だった。こうやってどんなに妨害を行おうとも、進んでいくものもある。脱線させても続いていくものもある。嫌だ嫌だと泣き叫ぼうとも実行される事もある。その場所で蹈鞴を踏み止まってしまうならば、周りは先に進む。こころが置いて行かれ、肉体も置いて行かれ、最後はひとり、くちびるを噛む。
納得がいかない話は僕ひとりが納得しなくても周りは納得してしまうから、個人の気持ち等尊重する事はなく、とはいえ僕が納得出来ないのは単純に僕の脳味噌が頷いてくれないからなので、僕ひとりの我儘に付き合ってくれる程世界はやさしくないと思っていたら、君は僕の一番近しい場所で待っていてくれているその真実に、僕のこころは破裂しそうになった。
待っていてくれたやさしさに、ではなく、近しい場所に居た残酷さに。の話なのだが。
「検死すんジャン」
「しますね、変死体は。でも理科実験で其処迄医学的な進歩を望まないと思いますよ」
昔僅かな硬貨で雀が二羽買えた。二羽買うとおまけにもう一羽付いてくるらしい。無料同然のおまけの一羽は、人間より価値が無いのに神様の目には見事見初められたらしい。
雀と人間を天秤に掛けたらそりゃ人間の方が重たいに決まっているのだけれど、同じ命には違いないので比べるのはドーヨ、とセンパイが異議を唱えていた事を不意に思い出して、そう言えばセンパイは命に優劣を意味無く付けないな。と思ったその瞬間、センパイのいつもの朝の行動を思い出し、矢張り命に優劣は存在するのだと思い知る。
「誰かが死んだり、誰かを殺したりして済む問題じゃないんデス。理屈ではどんなに理解していようとも、あたしは不完全ながら人間だから、矢張り感情が何処迄も邪魔をしてしまうんデス。むちゃくちゃなんデス」
「へえ、センパイって人間だったんですか」
「ふくざつデショウ」
センパイは笑いながら外を指差した。私の知らない武器を握るセンパイの指が差す空は曇っていて太陽さえ見えない。けれどセンパイは太陽が見えると言って笑った。明日は晴れるかも知れないと言って笑った。雨が続いているから明日も雨が降ると思っている天気予報そっちのけで明日は晴れると笑った。
そしたら私もセンパイも、もう雨の日の息苦しさは感じないのだと分かった瞬間、急にこの息苦しさがいとおしく感じてしまったので私は沢山呼吸をした。あると迷惑なのに無くなると寂しくなるのは自分勝手にも程がある。日常の選択の中で幾つもあるその選択肢は、人間がどんなに傲慢で高飛車で卑しいか教えてくれる。一度いとおしく感じてしまったものはそう簡単に手放せないのに、センパイは執着せずに簡単に手放してしまうらしいので、センパイは恐ろしいと言うより阿呆なのかなと誤解する。
「始まんなきゃ良かったのにナ」
「終わりませんからね」
でももう後戻りは出来ないし、しようとも思わない。歩いてきた道のりに間違いはないし、悔やむ事もしない。出来ないのではない、しないのだ。この道は必ずしも正しいとは限らない。寧ろ間違いだらけなのかも知れないが、僕達にはその間違いをすべて覆える程の力がある。とその時その瞬間迄はそう信じ込んできた。僕達には、少なくとも君には力があった。すべてのディテールを可能にする力があったのに、君は最後の最後で他愛ない僕の希望を打ち砕いたね。君は随分と前に死んでいたのを僕は気付いてあげる事が出来なかった。僕はずっと君の模倣を見ていたに過ぎなかったのだ。
(それでも君の存在は僕にとって、)